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戦時下の盛岡中学   12    増田眞郎(昭和20年卒業生)

 緑が丘にあった報国作業園
  盛岡中学校報国作業園は、現在の盛岡市緑が丘にあって、広さは約3・3ヘクタールであった。わたしたちが入学してすぐ、昭和16年の4月9日に、全校でそこを見に行ったときは、草が一面に生えている原野であった。

  農園作業は毎週水曜日午後と定められ、全校生徒が昼食ののち校庭に集合、整列して、隊伍を整えて次々に作業園に向かった。スコップや鍬は、作業用具置場にびっしりと入っていた。各自がそれを持って行き、作業が終わるとまた各自が持ち帰り、清掃して置場にもどすことになっていた。

  秋の収穫が終わって翌年春までの間は、この作業が行われなかったため、3学期だけは時間割が変わったが、1・2学期の水曜午後は、このあと昭和18年度まで、全校作業と決まっていた。

  初年度の昭和16年は、開墾のため、1学期中に7日全日作業の日があり、その中の3日は日曜日であった。16年秋までの全校作業は、次のように行われている。
  4月−9日(水)・16日(水)・20日(日)全日・23日(水)全日
  5月−14日(水)全日・24日(土)
  6月−1日(日)全日・11日(水)全日・18日(水)
  7月−1日(火)全日・6日(日)全日・25日(金)・29日(火)
  8月−27日(水)
  9月−3日(水)・10日(水)・24日(水)
  10月−4日(土)全日・22日(水)
  11月−1日(土)全日・8日(水)全日

  1年生は開墾には加わらなかったので、始めの中は、作業園に行っても、上級生が汗水たらして鍬やスコップを振るっているのを見ながら、遊んでいることが多かった。しかし植えつけが始まると、種いもや木灰の運搬などの仕事や植えつけの作業がまわってきた。


  5月14日は、13日の体育大会の翌日であるのに、全日作業であった。6月1日の日曜日は、興亞奉公日であることが全日作業の理由となっている。

  6月中旬には、原野が広大ないも畑・豆畑と変わってきている。開墾の終了は7月6日であった。
  作業のうち、種まきや植えつけはたいしたことはなかったが、こやしを撒くのは嫌だった。また虫取りは根気のいる仕事であった。運搬係になると、リヤカーを引いて、学校と農園の間を2往復することもあった。

  11月は収穫であるが、大根を背負えるだけ背負って、学校まで歩いたこともある。1年生では大分こたえた。 (つづく)


  ■コラム

 ■対馬鉄男先生(教練、銃剣術)
  柔らかいお人柄で慕われた軍人さんなのに、名前のせいか「がんてつ」とあだなされた。
  わたしは銃剣道部でもお世話になったからよけいに懐かしいが、そのほか恥ずかしい思い出もある。それは2年の1学期中間試験が終わりほっとして、佐野君と砂場で相撲をとって遊んでいた時、かたわらの鉄棒で伊藤平一君が「大車輪」を披露していた。
  それは知っていたのだが、転んで起きあがったわたし、そこまでで後は不明。気がついたら衛生室の寝台の上で何かぬるめくものをなめていた。
  はっと目を上げたら、対馬先生がいて、気付け薬の「神薬」をご自分の指に塗ってはわたしになめさせていたのだった。
  「ああ、気がついたか」と優しくほほえまれた。聞いたところでは、大車輪演技中の伊藤君のかかとが砂場から立ち上がったわたしの後頭部を思い切り蹴ってしまったというのだ。
  おかげでクラスの連中からは大笑いされるし、恥ずかしいのと情けないのとでそれから当分は小さくなっていたものだ。今でも「あの時は気の毒よりおかしいのが先だった。ごめんな」とよく言われる。
  ■小山真一郎先生(博物、生物)
  「イモ」のあだなであまりにも有名な小山先生についてのエピソードはいくら書いても書き切れまい。
  生物教室の標本の大部分は「イモ」の私物であり貴重なものだったとか。「イモのえんま帳は当てにならない。甲だと思ってたら丙だったじぇ」とか、しかし何と言っても、長期休暇(ほんとは鍛錬期間)中の宿題は忘れられない。
  「動物の足跡調べ(冬季」とか「馬の歩行調べ(夏季)」など。暑さ寒さの中で戸外を歩き回る作業が多いから、いやでも記憶に残るのだ。(佐藤洸) 


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