戦時下の盛岡中学   14    増田眞郎(昭和20年卒業生)

お先棒担いだモッコ運搬
 農園作業のほかに、時間割中には週1時間(冬季2時間)の作業時間があり、そのときには、農園で収穫した大豆の豆とりなどのほか、校庭の草とり、廊下の掃除、銃の手入れなどがあった。また冬の前、あるいは冬の間は、ストーブにたく薪を山から運搬したり、運搬した薪(まき)を鋸(のこ)でひき、またまさかりで割る作業が主であった。薪割りは学科の授業がつぶれたときにも行われている。

  予定されていた屋外作業が雨でできないときには、代わりに「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」とか、「宣戦の大詔」の謹書をさせられることもあった。

  3年生までの3年間には、1学期の終りごろの2、3日間を用いて薬草採集が行われた。観武が原や種馬育成所付近に出かけて、うつぼ草や山人参をとってきた。また三馬橋付近に出かけてゲンノショウコをとって来ることもあった。時には学校の周辺でおおばこをとった。

  昭和19年4年生の時の夏は、すでに松尾鉱山に動員中で行っていないが、薬草採集は全校行事であったから、低学年の人はこの頃同じことを行っていたかもしれない。

  勤労奉仕は2年生以降になって始まっている。これがやがて拡大強制化されて、勤労動
員となっていくのである。  (つづく)


  ■コラム

■射撃場の整地作業
  わたしたちが2年生だった昭和17年10月29日、上田黒石野の山際でそれは始まった。
  次が翌18年6月3日、この日はわれわれ3年生だけの奉仕。同月26日から7日間は、3年生だけ「六原農場」に入って訓練を受けた後、さらに同年7月26日と9月2日にも実施した。

  この勤労奉仕では、モッコで土を運搬するのが主たる作業だったので、いわゆるモッコ担ぎなるものを初めて体験したのだった。

  おかげで「お先棒を担ぐ」とは何かを、身をもって体験できたのは大収穫といえた。
  後ろを担ぐ者は「後棒」でモッコの綱を握り、それを左右に動かして前を担ぐ「先棒」を操縦する。要するに後棒が先棒を操るわけで、先棒は後棒の言いなりに動かざるを得ないのだ。

  広辞苑によれば、先棒は「先肩」とも言い、人の手先になる、手先となって騒ぎ回る者とあり、先肩2人で荷を担ぐとき、棒の前方を担ぐ者、また先棒、とあった。 (佐藤洸) 

■音楽教室で爆音聞き分け訓練も
 昭和18年元旦の新田校長訓辞は「今年は決戦の年」であり、翌19年はさらに一歩進んで「一大決戦の年」となり、同年4月、わたしたちが4年生に進級するや、薄っぺらな教科書を揃えたのも束の間、音楽教室で「ハヘイ、ハホト」などとピアノの和音聞き分けで飛行機の爆音聞き分けの訓練に入った。(註、ドレミが敵国語だというので=本当は有効国イタリア語なのに‖ハニホに変えた)

  さらには同じ教室で「イ」は「伊藤、トンツー」、「ロ」は「路上歩行、トンツートンツー」、「ト」は「特等席、トントンツートントン」、「ヘ」は「屁、トン」とみんなで斉唱しながらモールス符号の暗誦もさせられた。

  手旗信号も校庭で紅白の旗でなく両手を使って上下左右斜めと、片かなのイロハを描いて習い憶えたのだった。(村田榮男)


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