|
ドンつきの唄、そして軍事教練査閲
銃を持ち始めたころは、子供心には楽しかったらしい。分解・手入れ法を習って、その構造に興味をもった。銃剣を腰につけ、小銃を持って、校庭一杯を使って軍事教練を受けていた様は、今思えばいじらしいが、当時は大真面目であったのだろう。それに男の子であれば、飛び道具に関心がないわけがない。
「担え銃(つつ)」とか「捧げ銃」とか「構え銃」といった動作を、今やらされてもすぐできるであろうから、やはり厳しく仕込まれたのであろう。単純な動作といえばそれまでだが、数学や英語など、学科の方もこれだけ忘れないでいられれば、さぞよいであろうにと思うくらいである。
このごろの若い人は、きちんと立たねばならないときでも、手の指が伸びていない。だらしがないと思いながらも、教練で「不動の姿勢」を叩き込まれたことが果たしてよかったのかどうかと反問することもある。
匍匐(ほふく)前進などもよくやらされた。「伏せ」と号令されて、自分の前が水たまりなのでためらっていると、こわい教官に容赦なく一喝されて、そこに伏せをして泥まみれになった者もあった。
そのあとに他の授業があるのが分かっていても、この始末であった。今でこそ化学繊維は天然繊維よりも強いが、当時の化繊であるスフ(ステープル・ファイバーの略)は粗悪品の代名詞であった。
そのスフの上着でさえなかなか手に入れることができなかったのに、匍匐をして校庭の端から端まで進んで立ち上がってみたら、アウト・ポケットが無くなっていたこともあった。
儀式というと分列行進がつきものであった。校庭で、また公会堂前で、何度それを行ったであろうか。一所懸命に足をあげ、力強く大地を踏んで歩いた。おれたちは盛中生なのだ、誰にも負けてはいけない。「かしらーっ右」、わたしたちの視線の先は、校長先生のこともあった、県知事のこともあった、査閲官のこともあった。
1年に1度の査閲は、軍事教練の成果を調べる目的で、軍部から派遣される査閲官の前で繰り広げられる一大行事であった。予行演習や校舎内外の大掃除などを行って、学校は緊張してその日を迎えた。
1年生(昭和16年度)10月24日 おおむね良好(1年生は中止)
2年生(昭和17年度)10月12日 おおむね良好
3年生(昭和18年度)9月28日 良好、3年生の射撃動作は良くない(雨天のため屋内で行われた)
これが3年生までの査閲の日と、査閲官の講評である。
全くしつこいことに、4年生(昭和19年度)のときも、動員先の平塚において査閲が行われている。11月17日であった。このときは査閲官は作業場を巡回した。査閲官が来ると、作業班長と指名されている者が人員報告を行った。
わたしたちにとっては、査閲そのものよりも、学校を離れたために暫く見ないですんでいた配属将校が平塚にやってきて、朝は早く起こされるし、気合のかけられどうしで、大変に迷惑した記憶の方が強い。
3年生の3学期、昭和19年の2月ごろになって、教練で空包をうつようになった。音が出るから面白かった。しかし、実弾射撃を行う機会は、わたしたちの学年にはなかった。
教練の時間に銃剣道をすることもあった。実際に防具をつけてやるようになったのは、2年生の3学期からである。銃剣道の級対抗試合(昭和18年2月20日・19年7月12日)も行われた。
教練には学科もあった。学科では軍人勅諭をよく覚えさせられた。筆で謹書することが宿題になった(例えば17年4月末)こともある。また、戦陣訓がとりあげられた(例えば18年2月)こともある。
校庭での教練のほかに、野外教練も行われた。それは次の通りである。
1年生(昭和16年度)5月8日・6月19日・9月2日・11月6日・2月7日(全校)
2年生(昭和17年度)6月18日・11月11日
3年生(昭和18年度)6月8日(銃をもって初めての野外教練)
4年生(昭和19年度)5月30日(4・5年生合同)・6月16日(実戦的な演習)6月29日
わたしたちはただ歩き、駆け、はいずり回った。今思えば空しい限りである。
「目標ーっ、前方のポピラ、撃てーっ」。
微笑みをもって回想される教練の記憶といえば、対馬先生のなまり一杯の号令ぐらいしかない。
(つづく)
|