戦時下の盛岡中学   18    増田眞郎(昭和20年卒業生)

ドンつきの唄、そして軍事教練査閲
 銃を持ち始めたころは、子供心には楽しかったらしい。分解・手入れ法を習って、その構造に興味をもった。銃剣を腰につけ、小銃を持って、校庭一杯を使って軍事教練を受けていた様は、今思えばいじらしいが、当時は大真面目であったのだろう。それに男の子であれば、飛び道具に関心がないわけがない。

  「担え銃(つつ)」とか「捧げ銃」とか「構え銃」といった動作を、今やらされてもすぐできるであろうから、やはり厳しく仕込まれたのであろう。単純な動作といえばそれまでだが、数学や英語など、学科の方もこれだけ忘れないでいられれば、さぞよいであろうにと思うくらいである。

  このごろの若い人は、きちんと立たねばならないときでも、手の指が伸びていない。だらしがないと思いながらも、教練で「不動の姿勢」を叩き込まれたことが果たしてよかったのかどうかと反問することもある。

  匍匐(ほふく)前進などもよくやらされた。「伏せ」と号令されて、自分の前が水たまりなのでためらっていると、こわい教官に容赦なく一喝されて、そこに伏せをして泥まみれになった者もあった。
  そのあとに他の授業があるのが分かっていても、この始末であった。今でこそ化学繊維は天然繊維よりも強いが、当時の化繊であるスフ(ステープル・ファイバーの略)は粗悪品の代名詞であった。

  そのスフの上着でさえなかなか手に入れることができなかったのに、匍匐をして校庭の端から端まで進んで立ち上がってみたら、アウト・ポケットが無くなっていたこともあった。

  儀式というと分列行進がつきものであった。校庭で、また公会堂前で、何度それを行ったであろうか。一所懸命に足をあげ、力強く大地を踏んで歩いた。おれたちは盛中生なのだ、誰にも負けてはいけない。「かしらーっ右」、わたしたちの視線の先は、校長先生のこともあった、県知事のこともあった、査閲官のこともあった。


  1年に1度の査閲は、軍事教練の成果を調べる目的で、軍部から派遣される査閲官の前で繰り広げられる一大行事であった。予行演習や校舎内外の大掃除などを行って、学校は緊張してその日を迎えた。

  1年生(昭和16年度)10月24日 おおむね良好(1年生は中止)
  2年生(昭和17年度)10月12日 おおむね良好
  3年生(昭和18年度)9月28日 良好、3年生の射撃動作は良くない(雨天のため屋内で行われた)
  これが3年生までの査閲の日と、査閲官の講評である。
  全くしつこいことに、4年生(昭和19年度)のときも、動員先の平塚において査閲が行われている。11月17日であった。このときは査閲官は作業場を巡回した。査閲官が来ると、作業班長と指名されている者が人員報告を行った。


  わたしたちにとっては、査閲そのものよりも、学校を離れたために暫く見ないですんでいた配属将校が平塚にやってきて、朝は早く起こされるし、気合のかけられどうしで、大変に迷惑した記憶の方が強い。

  3年生の3学期、昭和19年の2月ごろになって、教練で空包をうつようになった。音が出るから面白かった。しかし、実弾射撃を行う機会は、わたしたちの学年にはなかった。

  教練の時間に銃剣道をすることもあった。実際に防具をつけてやるようになったのは、2年生の3学期からである。銃剣道の級対抗試合(昭和18年2月20日・19年7月12日)も行われた。

  教練には学科もあった。学科では軍人勅諭をよく覚えさせられた。筆で謹書することが宿題になった(例えば17年4月末)こともある。また、戦陣訓がとりあげられた(例えば18年2月)こともある。
  校庭での教練のほかに、野外教練も行われた。それは次の通りである。
  1年生(昭和16年度)5月8日・6月19日・9月2日・11月6日・2月7日(全校)
  2年生(昭和17年度)6月18日・11月11日
  3年生(昭和18年度)6月8日(銃をもって初めての野外教練)
  4年生(昭和19年度)5月30日(4・5年生合同)・6月16日(実戦的な演習)6月29日
  わたしたちはただ歩き、駆け、はいずり回った。今思えば空しい限りである。
  「目標ーっ、前方のポピラ、撃てーっ」。
  微笑みをもって回想される教練の記憶といえば、対馬先生のなまり一杯の号令ぐらいしかない。
(つづく)


  ■コラム「『縄』に絡んだ思い出」

 もう一つの「縄」に絡んだ思い出は、やはり三年の冬にある。太田村の暗渠排水だ。
  当時、水はけ悪かった土地柄を改質するため、と思うのだが、農地に溝を掘って、粗朶の束を埋設する作業に出動したのだ。

  家に軍手のある者は軍手でよし、ない者は布切れで三本指(拇指と人差し指を独立、ほかはひとまとめ)で肱まで伸びた長手袋を作って持参することになった。僕のその手袋が紺地に大きめの白い絣の柄だったのを引率の上館先生(出征された佐藤孝一先生の後任でわが三年四組担任)が見て、「鳥生はお母さんに良いでしょうってソデを切ってもらったんだろう」。すると近くに居られた古館福次郎先生が「良いどご当でられだな」と向こう相づち。

  あのころ、大方の主婦は着物姿、戦時下彼女たちは着物の袂を切って筒袖に作り替え、その布は下半部を改造するモンペの方にまわったり、刺し子の防空ずきんになったりしていた。

  両先生の冷やかしには、そんな大和撫子たちを犒う温もりがこもっていたような気がする。
  ところで、わが三本指の手袋が物を言うのは先の溝掘りよりも、粗朶を藁縄で束ねる時の方だった。相棒の一ノ渡君が粗朶を抱えて、それまで出来ている長い束の先端につなぎ合わせる、そのタイミングに合わせて向こう側の縄のリールから出た端を右手で掴んで、粗朶を抱え込むように下から回し、左手に取って、右手で手操った元の方から縄の下へ左の拇指でクルッと挟んだ端を右手に持ち替え、ギュウと一結び締めた弾みのまま右の拇でクルッと玉結びに入れてキュッと、締めたところを一ノ渡君が鉈でバッ。……


  50aほど前進してまたくりかえす。クルッ、ギュウ、クルッ、キュッ………。
  そのうち、お茶かお弁当運んできたおばさんがそばまで来てじっと見ている気配。僕は益々得意になってクルッ、ギュウ、……。すると、おばさんが言ったものだ。

  「アイヤア、メゲエゴドオ、ナニガケッテエ」僕らは村の人たちから物をもらってはならぬと固く戒められていたし、学校側から前もって村の方へ左様なことはなさらぬようにとお願いしてあったもののようだ。

  交替でやった作業に、埋め戻しと地固めもあった。さらに整地して暗渠が出来上がるわけだが、僕らが「ドンつき」と呼んだ地固めは愉快なものだった。

  「タコ」と呼ぶ道具があり、径、高さとも40aほどの丸太の回りに括り付けた縄が、八本足だったからそう呼んだのかは定かでない。リーダーは応召帰りだろうか、この節には稀な、しかしやはり年配のおじさんがリーダーで真ん中に構える。僕らが回りの縄(うち何本かは上等のロープだったか)の端を一本ずつ両手で持って取り巻く。と、小父さんが朗々と歌い出す。しかし町の工事現場で見たヨイトマケとはちょっと違っていた。
  「箱根八里は馬でも越すが」で僕らは「ヨイヨイ」と囃す。「越すに越されぬヨー大井川」僕らが「ヨーイヨーイ」で縄を引っ張ると、真ん中のタコが跳ね上がってドシンと地を叩く。「ヨイヨイヨイ」でまた跳ね上がり、「アリャアリャンコリャリャノヨーイートナー」と、もう二回引っ張って気勢を上げる。小父さんは息を入れる。

  次々と「佐渡へ佐渡へ」でも「娘十八」でも詞が七七七五なら何でも良いらしかった。かくして中学生のヨーイヨイに連れてタコは少しずつ完成近い暗渠網の上を進む。そのうち、とんでもない歌詞が飛び出して僕らを喜ばしてくれる。 「sunzu−no−ogattanodo、warasuno−nagunowa−」「?ヨーイヨイ」僕ら、耳すます「appa−de−nakereba−ヨーdamasarenu−−」(アハアそうかあ)「ヨーイヨーイヨイヨイヨイ」と僕らは元気いっぱい……。
  (どうしたことだ。六〇年の記憶の底からスラスラと湧き出て来るではないか。語るに落ちたか)
(鳥生敬郎) 


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