戦時下の盛岡中学   21    増田眞郎(昭和20年卒業生)

温泉旅館に雑魚寝の合宿

  昭和19年に入って、5月3日に練習を再開、その日は組立てと分解のみ、また13日の開校記念日は全校行軍であったが、滑空班は学校に残って訓練を行った。班員は、そのころはわたしたちの4年生が16名に減っていたが、再募集してその後21名に復活した。

  2・3年生の班員もできたが、練習を合同で行ったことはなかったと思う。6月7日は山菜採りであったが、滑空班は再び訓練であった。地上滑走の課程を終了して跳躍に入ったがそのためには校庭は狭すぎた。

  練習はしばらく中断され、8月下旬に1ヵ月の松尾鉱山の動員から帰校した直後、鶯宿の滑空訓練所で、本格的な訓練に入った。目標は、9月26日の県下中等学校滑空大会参加であった。
  宿舎は鶯宿温泉の川弥旅館で、訓練所までは3キロほどあった。往復は駆足であった。ここでは、訓練所にある文部省一型という初級滑空機を用いた。これは当時最も普及していた形式の滑空機で、操縦性は確かに良かった。

  滑空大会では、分解・組立て時間及び10人の搭乗滑空時間などが競技種目に入っていたので、機種はこの型に統一されていた。

  この合宿訓練の指導者は、桐野教官という訓練所の教官であった。学校からは体操の加藤昌得先生が同行された。いつからかはっきりしないが、このころはすでに滑空班の指導が中村先生から加藤先生に代わっていた。

  滑空訓練は1機当たり21名が1組となって訓練するように定められていた。1名が搭乗者、1名が翼端支持、1名が尾索支持、残りの18名が左右2組に分かれてゴム索を引いた。

  尾索支持は、ゴム索が引かれていく間、機尾に付けられている尾索を地中に打ち込まれている杭にからげて持ち、指揮者の合図のあるまで機を固定している役目であった。

  翼端支持は、ゴム索の引かれる間、また機が走り出し浮力がつくまでの間、左主翼端を手で支えて、機を水平に保つ役目であった。役目は順に代わった。18回ゴム索を引いたのち、尾索支持、翼端支持をへて、やっと1回搭乗することができた。

  温泉の旅館で合宿というときこえは良いが、実は14畳一間に21名が入っていたので、まさにすし詰めであった。  (つづく)


  ■コラム「「報国団について」」

 
  昭和16年に校友会が報国団になったことにより、「校友会誌」も「報国団誌」と改称され、その1号が翌17年に発行された。

  表紙の意匠は中井汲泉こと政治郎先生が担当され、そこには第1号とあるが、目次を見ると「第56号」とあり、この号数は多分校友会誌からの通算号数だろう。

  編集は藤崎総人先生で、編集後記も書かれている。
  この中からわたしたち60期に関係ある部分を抜き出して紹介しよう。

  まず目次に続いて「宣戦の詔書」と「青少年学徒に賜りたる勅語」があり、次いで新田校長の巻頭言「シンガポール陥落の意義」、そして「論叢」が5年の潮田さんや4年の村田柴太さんなど。「散文」も5年中心の10人の中に、われら1年から1人小田久男君が「感謝する心」と題して、聖戦下の青少年学徒たる者は神に、天皇に、農民に、そして戦地の兵士たちに感謝の心を常に持ちながらこの大難局を乗り切ろう、と述べている。

  「詩苑」も勇ましい題名のものが多い。
  「歌苑」も5年生がほとんどだが「俳句」では1年から大矢良孝、鈴木辰三両君が投句している。が、残念ながら目次だけで中身散逸。

  「校報」は卒業生名簿、職員名簿、教務日誌、上級校合格一覧。

  「報国団部報」では、まず鍛錬部柔道班、決勝でまさかの対盛商戦完敗を悔しがる記事。次いで球技班野球部は盛商に5対2で快勝。ほかに新しい班として「滑空班」「防空班」の紹介。文化部では修文班(読書、弁論、団報発行)芸能班(音楽、絵画、手工、書道)科学研究班(理化、博物、演芸など)
 
  翌昭和18年7月発行「報国団報」になると、物資不足が影響し、団報のサイズも一段と小型化し、ポケットサイズになってしまった。

  団長(校長)新田信寛先生の「巻頭言」も東條首相の「この年こそ決戦の年」という声明を受けて、聖戦目的完遂にまい進しようとのまさに号令そのものだった。

  内容も真っ先に「前線に送る」と題する作文を学年代表各1名が出しており、わが学年(17年度2学年)は堀川英俊君が「満蒙国境警備にあたる先輩諸兄に告ぐ」と題して自分たちの意気高らかな年間行事、部活動の成果、靖国神社参拝などを紹介し、後に続くを信じ後顧の憂いなく北方の守りを固められんことを願い、武運長久を祈ると結んでいる。彼自身は翌年東京陸軍幼年学校に進んだ。(佐藤洸) 


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