戦時下の盛岡中学   24    増田眞郎(昭和20年卒業生)

4大祭日にあった拝賀式

  11、年中行事
  四方拝・紀元節・天長節・明治節の4大祭日には、西控所において拝賀式があり、教育勅語の奉読・学校長の式辞があった。

  これは敗戦までの諸学校において永く行われていた行事であるから、もちろん盛中だけのものではない。わたしたちも、小学校以来、式のたびに深く頭を垂れて勅語の奉読を何度も聞いた。これが学校教育の指導原理であったし、これから逸脱した学校教育は考えられなかった。

  わたしたちは皆この勅語を暗唱していた。戦後30年間全くこれを見聞きする機会が無くなって、いまやそれを完全に暗唱することのできる者はまれであろうが、わたしたちが盛中に入学する入学試験の口頭試問の設問に選ばれていることから分かるように、小学校のときから、それを覚えることは義務であった。

  奉安殿から式場まで、桐箱に収められた勅語の巻物を捧げもってくる教頭先生や、壇上で緊張した面持で巻物をひろげる校長先生の白手袋を、いまも忘れることができない。(3年生=昭和18年=の天長節の日は、拝賀式後、公会堂前で行われた市内中等学校生徒の分列行進に参加している)

  5月22日は、昭和14年の同日「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」が発布されたことを記念して、青少年学徒記念日とされていた。1年生(昭和16年)・2年生(昭和17年)のときは、1時間目に勅語奉読ならびに閲兵分列行進が校庭で行われている。3・4年のときは何も行われていない。

  春季皇霊祭(今の春分の日)、秋季皇霊祭(今の秋分の日)、新嘗祭(今の勤労感謝の
日)は当時も休日であった。

  毎年春秋2回、4月下旬と10月中旬の靖国神社の大祭の折、新たに合祀される英霊のため、天皇・皇后両陛下が御親拝される日には、学校では遙拝式のみで、授業は休みであった。御親拝の時刻に、東京の方を向いて遙拝を行った。4年生(昭和19年)のときは、遙拝式ののち閲兵分列行進が校庭で行われている。

  また4月下旬から5月の始めころ、護国神社の合祀祭が夜に行われるのが常であった。その折には、高学年の一部が参列した。暗闇の中を進む御羽車に拝礼しながら、いろいろのことを考えたものである。合祀祭の翌日には、全校で護国神社の参拝を行った。

  昭和16年太平洋戦争が始まるまで、毎月1日は興亞奉公日と定められていた。特に行事はなかったが、それを理由に、休日にもかかわらず全日作業の行われることがあった。開戦後は、開戦日が12月8日であったことにちなんで、毎月8日が大詔奉戴日と定められていた。

  1月28日は、黒溝台記念日とされていたが、この日を記念して行事を行っていたのが、岩手県下全部に及んでいたのかどうかは知らない。在学中のこの日の行事は、次の通りである。

  1年生(昭和17年)
  公会堂前で分列行進、ついで護国神社で必勝祈願祭。
  2年生(昭和18年)
  全校で雪中行軍(学校・護国神社・鹿島下・文化橋・山岸・黄金競馬場・学校    農園・学校)。
  3年生(昭和19年)
  午前中授業、午後全校で八幡宮・護国神社を参拝。 (つづく)


  ■コラム

■みそ汁給食
  昭和18年、新年度早々からみそ汁給食実施、4月12日、まず担任の先生ともども二拍手一拝、食前詞、二拍手そして「いただきます」となる。(「四星霜」から)

  ◇   ◇
  「百年史」によれば、食前詞は「豊受の大神、国津大神の大御恵(おおみめぐみ)によりて、これらの御霊を朝餉夕餉に賜り、身も魂も健やかに醜の御盾とならしめ給ふ」とある。

  さらに、給食は他の中等学校でも実施し始めたらしいが、長続きはしなかった。その点、盛岡中学では学校農園で大量に大豆を収穫し、みそ屋さんでみそと交換したので長続きしたという。
  余談…筆者の記憶では食前詞の中に「…みたまのふゆを、うやまいまつる」という一節があったと思うが、もしかすると六原農場での食前詞だったかもしれない。

  いずれあのころは一から十まで「神道漬け」だった気がする。
  給食用の食材は各地の父母から差し入れがあり、特に宮古方面からの大量のワカメにはみんなで感謝した覚えがある。

  また学校農園については一部の父兄から「農学校じゃないんだから」とクレームもあったらしい(「百年史」より)

  原料の大豆は、水を抜いたプールで乾燥させておいた。それを生徒が時々失敬してきてストーブの上でいって食べたものだが、これは楽しい思い出になっている。(佐藤洸)

 ■薬草採取のこと
  昭和16年7月26日、すなわちわれわれが1学年の1学期末、これが最初の薬草採取だった。場所は観武ケ原(みたけがはら)。採取の対象はウツボグサ。懐かしい草だった。

  幼いころ、よく花びらを抜いては密を吸って遊んだもので、チチグサとも呼んでいた気がする。
  以後薬草採取は翌17年7月24日、この時もウツボグサとヤマニンジン、同じく翌25日はオオバコの採取だった。(最近気がつけば、あれほど道端にしつこいほどに生えていたオオバコにも、とんとお目にかかれなくなった)

  さらに昭和18年7月31日と8月3日にはゲンノショウコを三馬橋付近や北山付近で採取した、と増田氏の「四星霜」には記されている。

  こうした作業は、いつも生物担当の小山先生の指導によるものだった。
  それにしても、観武ケ原には、このほか野外教練とかウサギ狩り、はては冬の動物の足跡探しなどずいぶん盛中生はお世話になっている。

  ところで、採取した薬草の行方については知らされないままのような気がするし、百周年記念誌にも記述がなかったのは不思議である。(佐藤洸)
 


              前へ   目次へ   次へ