戦時下の盛岡中学   40    増田眞郎(昭和20年卒業生)

ラボー班は2直制の勤務に

 ラボー班が2直制に入ったのは12月7日からである。

  ラボー班はA・B2班に分かれて、A班がまず夜勤に入った。水曜の休日の後、木・金・土・日・月の夜5日間が夜間勤務で、水曜は休日、次いで次週は木曜から火曜までの6日間の昼間勤務、以下これを繰り返すのである。

  夜勤の場合の起床は午後4時で、寮を出発するのは6時であった。ということは、作業開始が午後8時ごろであったのだろうか。夜勤を終えて朝食をすませ、帰寮するのは朝の8時近かった。それから雨戸を全部閉めて夕方まで寝るのであるが、昼寝ることが初めはなかなかできなかった。しかし2回目の週に入るころには、大分慣れてきたようである。

  「朝帰寮してすぐ海岸に行き、新鮮な大気を吸ってから寝たら、夕方までぐっすり眠った」というわたしの記録もある。

  夜勤というと、暖をとるために工場の中で夜通したかれていた焚(た)き火のことを思い出す。既にそのころは、削る腕も修理の腕もかなり上がっていたので、一人で1日に1本削ることは十分にできた。無理をして1日に2本削ることもあったが、それほど無理をする必要はなかった。

  そのため、火のそばで2・3時間は居眠りができたのである。暗い大きな工場の中で燃えていた薪(まき)の赤い炎は本当に暖かかった。ただし警戒警報が出ると、火はたけず、工場内は冷えびえとして寒かった。

  ラボー班の2直制は、2月上旬まで続いた後、しばらく中止されている。それは1月中旬より3月にかけて、上級学校の入学試験受験者が、入れ代わり平塚を離れては戻りしており、在平塚の人数がずっと減っていたからである。

  ラボー班の2直制は、その後4月26日に再開されているが、それがいつまで続いたかの記録がない。動員最終月の六月は昼勤のみであった。

  12月の半ば過ぎたころから、ラボー班では荒削りのみでなく、中間仕上げ削りをやらせてもらえるようになった。昭和20年に入る頃から、次第にプロペラの素材や修理部品の供給が、以前ほど円滑でなくなり、日によっては削る素材が1本もない日も出てきた。

  そのような日には、終日外で日向ぼっこをしたり、完成品かどうか分からないが、野ざらしになっている滑空機の操縦席に入り込んでいたずらをしてみたり、工場の他の棟を何食わぬ顔をして見て歩いたりした。プロペラの殻を生産している工場は、みるからに機械工場らしく、どうせならこちらで働きたいものだとわたしは思った。

  動員後最初の空襲警報の発令は11月1日で、当日は公休日であった。しかし特に何もなかった。工場作業中の空襲警報は11月5日が最初で、11時25分に先生に引率されて、全員防空壕に退避した。この日も何も起こらなかった。

  初めのうちは、空襲警報のサイレンが鳴るとギクッとしたものだが、そのうち次第に慣れてきた。11月中にはその後4回、12月に3回、空襲警報のために退避している。京浜地区が初めて爆撃されたのが11月27日、1万メートルの高空を飛んでいくB29の編隊を初めてわたしたちが見たのが12月3日であった。

  そのときは11機と6機の編隊であった。「今工場ではキ八四−第7案が工員の徹夜の敢闘でできつつある。これがあればキ八四も1万メートルの空でB29を迎撃できるのだ」と、当日わたしは記している。

  そのころわたしたちが作っていたプロペラは、キ八四−第5案であった。当時、疾風はまだ1万メートルの高空でB29を迎撃するに至っていないという風評が、わたしたちの耳に入っていたのであろうか。

  太陽の光をキラキラと反射しながら、青空の中を高く飛んでいくB29の編隊を、その後もたびたび見ることになるが、時にはそれは飛行機雲を長くひいていた。飛行機雲を見ることは、初めての経験であった。憎らしいとも思ったが、美しいと思うこともあった。 (つづく)


  ■コラム

 ■海軍将校と配属将校
     
  わたしも宮古の磯鶏における海洋訓練100名の中の1人だった。なぜ100名なのかは覚えていない。ただ、海軍から派遣の指導責任者だった池田海軍中尉(増田氏の記憶で判明)の印象が深く焼き付いている。

  池田中尉はわたしたちに話すとき、終始目玉を左右に動かす癖があり、それが不思議に思えた。

  また次のような話をされた。

  「われわれ海軍は月月火水木金金と寝る間も惜しんで猛訓練に励んでいるので絶対に負けない。夜はある程度睡眠をとるが、不足がちなので、自分なりに訓練して、人の話を聞くときは目を大きく開けたまま眠ることを会得した」と。

  これには驚いた。どうしてそんな器用なことができるのか。しかしその方法は話さなかった。彼だけの特技だったのだろう。

  その他のことでは、訓練のお陰でボートを1人で漕げるようになったことだが、あの時は初めて親元から離れたことで、寂しさから帰心矢のごとくであった。

  4年生になるころ、配属将校が替わった。

  彼は盛中生をとにかく軍関係に志願させることをもっぱら使命としているかのようだった。
  ひそかに彼に奉ったあだ名は「鬼畜」とか「黒豹(くろひょう)」だった。(これも増田氏の記述より)。その彼がこともあろうに平塚の動員先までやってきて、査察と称して視察していった。

  ある朝、4年生全員を近くの海岸に集合させ「この太平洋の向こうはアメリカだ。何でもよいから大声で怒鳴れ」と言った。

  ややあってから、皆、怒鳴り始めた。わたしも怒鳴った。「鬼畜ウ…!」と。
  すると周りの者たちが、おい、そんなこと怒鳴って大丈夫かと言う。わたしはハッと気が付いてギクリとしたがもう間に合わない。

  わたしと何人かは彼のほうを振り向いた。しかし、わたしの声がみんなの声と混じり合って聞こえなかったのか、自分のあだ名を知らなかったのか、別に何事も起こらなかった。

  彼が怒鳴れと言ったとき、わたしの脳裏に浮かんだのは、配属将校のあだ名ではなく、当時町中に貼られたポスターの標語「鬼畜米英」だったのだ。それがたまたま彼のあだ名と同じだったのを友人たちが聞いて驚いたというわけだった。
  いずれわたしは思い切り怒鳴ってスッキリしたのだった。(千葉県茂原市在住、鎗田 元和)

 ■5年生のストーム
     
  授業中に5年生が入ってきて、先生に「出てください」と出してから「きのう、県立高女の運動会に行ったやつは立て」と怒鳴って、立った3人を思い切り殴った。
  城南小学校出身者は女学校が近いから見に行ったろうが、鹿野協亮君は忘れることができず、病院の院長になってから殴った1人が診療にきたので何か仕返しをとふと思ったという。結局、医師の良心がそれを止めたと言っていた。(川守田 進) 


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