戦時下の盛岡中学   42    増田眞郎(昭和20年卒業生)

高校受験で公休申告

 10月に平塚に来てからは、教練の査閲が1度行われたほかは、もちろん学科の授業はなかった。初めのころは疲れるし、12月に入ると寒いしで、寮にいる間もほとんど勉強はしなかった。しかし、一応入学試験のことが心配で、勉強せずにいてどうなってしまうのかという不安はあった。

  昭和20年度の官立の高等・専門学校の入学試験は、受験者がほとんど学業から離れて動員されている関係上、それを考慮して、いわゆる学科試験は行わないということが発表されていた。

  試験は、第1次選考が各中学校より提出される調査書による書類選考で、第2次選考は志願者を各学校に集めての筆記試験等、ただし特別の準備は要らない、というだけの内容であった。

  勉強しようとしても時間はないし、準備は要らないという発表を信用するよりほかはなかった。第2次選考の時期は学校の種類によって区別された。第1期は高等学校、第2期は工業・農業・経済専門学校、第3期は医学専門学校で、それぞれ1・2・3月の半ば過ぎに行われた。

  第1次選考は書類選考ということで、各自にとって志望校の選択が必ずしも自由にはできなかったであろう。先生方はまた内申書をいかに上手に書くかに苦労されたということである。

  私立学校関係についても、官立学校と同様の方針で入試が行われたようである。

  第1次選考の合格通知を工場に持参して申告すると、受験のための公休が認められた。私は11日間であった。そしてその期間分の米と、列車の乗車券購入のための証明書が交付された。

  20年の1月ごろは、特別の事情がない限り、長距離の列車乗車券は購入できなかったが、受験のための乗車券発売は優先的に取り扱われた。受験写真も工場内でとって用意することができた。

  すでに東京はたびたび空襲を受けていたから、東京を通り過ぎて東北線に乗るまでは、途中で空襲警報が出たり、爆撃で不通になったり、各自それぞれに苦労した。それでも、受験とはいえいったん家に帰ることができるという期待があって楽しかった。

  問題の筆記試験であるが、例えば第1期の高等学校の場合、それは全国共通問題で、確かに学科試験ではないが、頭を大分使わなければ解けないような沢山の問題を、1時間で解かされたり「最近最も感激したこと」という題で作文を書かされたり、国語と物理の中間のような問題を解かされたりした。筆記試験のほかに面接試験もあった。(つづく)


  ■コラム「動員と食物考」(2)


  2回目の松尾鉱山行きと同じ年の10月、われら4年生も神奈川県平塚市の工場に動員された。食事は食券によるセルフサービスだった。

  しかし、都会地であり、戦争も末期であり、食糧事情は松尾に比べてかなり悪く、白米など望むべくもなく大豆入りは良いほうで、サツマイモその他で増量されていた。
  ある朝食の時、みそ汁の具を見てハッとした。里芋のズイキが緑色のまま、2、3センチに切られて浮いている。

  乾燥したものなら普通なのに、生ではアクが強くていがらっぽいにきまっている。
  思い切って口に入れた。やっぱりそれから数時間、作業中ものどがいがらっぽくてみんな閉口した。

  工場での作業ははじめ昼だけだったが、そのうち3交替となり、夜勤が加わり、真夜中に睡魔に襲われたいへんだった。しかも宿舎工場まで往復数キロ、夕食を済まして帰るともう腹が減っていた。

  ある休日、飯ごう炊さんやろう、との声があがり、6、7人の仲間で近くの防風林のある海岸に行った。その内側で枯れ枝やら松ぼっくりなどを拾い燃料にした。

  飯ごう炊さんにはなれていたので、うまく炊けた。米は各自が家から持参したものを出し合った。副食は何もない。これも持参のしょうゆや塩をぶっかけて車座になって食べ、一時の満腹感を味わった。

  ある時は、近くの住人が副食を提供してくれたり、「うちにおいで」とのご厚意に甘え、何遍か副食をちょうだいした。これでは申し訳ないと、みんなで少しずつお金を出し合ってお礼をしたことだった。

  午後3時の休憩時間、間食が出ることもあり、サツマイモ2、3本だったが、少しは腹の足しになった。

  ある時は、長さも太さも鉛筆ほどの、黒、茶、白色のブチの色合いのものが配給された。

  乾しバナナだという。子供のころ、高嶺の花と思っていたあのバナナ?といぶかりながら口に入れた。うまい、甘い。ほとんど全く甘味の乏しかったころだったので、この自然の甘さはなんとも言えず、しっかりと胃袋に焼き付けた思いだった。

  敗戦の年、4月に都内の大学に進み、9月から授業だったが、そんなある日、都内で場所は忘れたが乾しバナナを売っているのを見て、平塚での配給を懐かしく思い出し、さっそく買って食べた。ところがどうだ。全然うまくないのだ。

  ちょっとの月日の違いとはいえ、甘みになじみ始めた舌の感覚が変わっていたのだろう。ましてあれから60年。夢のような話である。(千葉県茂原市在住、鎗田 元和) 


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