戦時下の盛岡中学   43    増田眞郎(昭和20年卒業生)


日の丸手ぬぐいで鉢巻き
 20年に入ってからは、公休日が隔週水曜日と変更され、公休日までの間が大変に長くなった。2月・3月となると、さすがにわたしたちも戦局に対する危機感を持つようになった。日の丸の手ぬぐいが配られ、それを鉢巻きにして生産に励んだ。

  2月16・17の両日には、終日米軍艦載機による攻撃を受けた。低空で頭上を通るときには、風防ガラスの中の操縦者が見えるほどであった。高射砲などの対空火器による応戦もすごかったが、ほとんど当たらなかった。弾片を拾った者もいた。工場の建物に機銃掃射による弾痕が残った。

  2月中には、空襲警報による退避が7日もあった。3月には、10日未明東京大空襲があり、東京の空が真っ赤になるのが平塚からも見えたが、大部分の者は眠っていた。

  京浜地区を爆撃するB29は、たいてい伊豆半島を北上し、箱根の上あたりで向きを東に変えて進んだから、平塚よりやや北の上空を東に進むB29の編隊を、いつも見ることができた。目標が京浜地区であれば平塚は素通りということで、夜中に空襲警報が出ても、知らずに眠っていることが多かった。サイレンの音一つで跳び起きていた初めのころとは大きな違いであり、また最後までそれで通用したことは幸いであった。

  これを除くと、3月には空襲が少なかった。しかし月半ばには硫黄島が米軍の手に落ちた。応召のため工員の数も減って、このころでは試作機のプロペラ削りも、わたしたちが行うようになっていた。

  わたしたちの技術も上がっていたのかもしれない。キ八四−第八案、キ九八−第二案などというのがそれである。

  試作機の場合は、焼きの入っていないジュラルミンの角材から羽根の形を削り出し、あとで焼きを入れるので、ちょうど彫刻をしているような面白さがあった。試作機の仕事がくると、何人かで削り合った。

  北国とは対照的に、南関東の2月は好天の日が多い。湘南の冬は、岩手から来たわたしたちにとって不思議に思えるほどの明るさであった。暖房がないため、つらいこともあったが、3月に入ると急速に春が訪れ、工場の往復の道沿いに広がる麦畑では、麦が青々と伸びてきた。わたしたちの盛中在学もそろそろ終わりに近づいた。

  卒業式は3月29日10時より、正気寮という工場の建物の講堂で行われた。1級上の5年生とわたしたち4年生の合同の卒業式であった。2学年が同時に卒業したのは、母校100年の歴史の中で、この年だけのことであろう。

  当時の切迫した時局を反映し、学校長の式辞には「この卒業式は特攻隊の結成式である」という言葉があった。また同窓会代表は「諸君はすべからく国の発動機たるべし」と祝辞を述べられた。

  これらのはなむけの言葉をわたしたちは素直に受け取り、5千同窓の中に伍していく決意を固めたのも、また時世をつくづくと感じさせるものである。

  卒業式のあと、食堂で赤飯や汁粉が出て、工場がわたしたちを祝ってくれた。久しぶりに口にする砂糖の甘さであった。(つづく)


  ■コラム「小市先生のこと」

 ■小市先生のこと
事務局

 小市巳世司先生(東大卒、昭和15年から17年7月まで盛中ご在職)のことは今もご健在ということを含めて紹介済みだが、このほど高崎市在住の阿部功氏から、小市先生が詠まれた盛岡に関する短歌を数十首と、昨年8月15日に日本青年館で行った「戦争と私」という講演要旨が送られてきたので、一部を紹介したい。
  阿部氏は歌壇における小市先生のご活動に今もかかわっている。

  ◇       ◇
  ☆小市巳世司著作歌集より
  −「南の風」昭和12〜25年
東京を発ち十時間余りにて北上川に沿いつつ歩む
入りゆきし時のクラスの気配にてわが音量の節約をなす
騒がしき中に構わず講義しつつ秋づく山に対(むか)うをりをり
あじきなき授業は鐘と共に止む生徒らが本を閉づるより早く
  −昭和16年 盛岡の日々
栗林伐りゆき日々の澄みくれば散りし黄葉(もみじば)の上に昼寝す
灯の下に虹の如しもガラス窓をとよもす粉雪(こゆき)吹き入る見れば
  −昭和49年 盛岡の一夜 より
この川に思いまつはる人々も絶えて見るなし三十三年
暗き道に灯す八百屋あり寄り行きてたづね相語る昔の人を
わがかつて下宿せし加賀野のあたり越え夜空に高き灯は岩山か
  −「狭き蔭に」昭和59年〜平成2年
  (平成2年、1年先輩が先生を招待した時)
小市先生腰に手拭藁草履渾名ナマグサ五十年前
学校菜園草に寝ていし先生に心引かれきと今宵の君等
わが去りし後遠く平塚に動員され飛行機の部品造りきと言ふ

 


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