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松尾鉱山動員「食堂で歓迎の映画会」
宮古の海洋訓練に出掛けるまでは、いわゆる学徒動員の話など無かったのだが、帰校してみると弟分の3年生がすでに松尾鉱山に勤労動員中で不在だった。しかし、7月初旬、動員中の3年生が「全員予科練志願」の決議を挙げて帰校するというので急きょわれら4年生が代わって出発することとなった。
出発の2、3日前から盛岡地方は雨が降り続き、出発前夜は中津川がはんらん状態で、川辺の家々は隣組の組長さんから「外山ダム決壊の恐れあり」との連絡で、家財道具の避難命令も出たが、出発の朝には小雨模様。予定通り全員(滑空班を除く)盛岡駅集合、松尾鉱山へと向かった。
ところが滝沢駅を過ぎて間もなく、列車が途中停車。渋民信号場手前で道床流失のため不通とのこと。列車は、いったん滝沢駅に引き返したので、われわれは全員下車し、小雨のなか、滝沢渋民間をリュックを背に線路上を歩いたのだが、途中、災害現場に向かう保線作業員から「ご苦労さん」と声が掛かったりした。
渋民信号場には新築中の鉄道官舎があり、ここで雨宿りしていたところ、そこへ好摩方面から3年生の乗った列車が進入してきて、この列車が折り返し好摩行きになると分かり、われら4年生はこれに乗ってさらに好摩で花輪線に乗り換え、大更に着いた。
大更駅前の松尾鉱山鉄道部では、すでに炭俵を空にし、木炭の山盛りが赤々と燃え上がり、ぬれた身体のわれわれを待っていた。
やがて鉱山鉄道で屋敷台へ、そこからはトラックに分乗して曲がりくねった山道を登り峠を越えてすぐ左手に、初めて見る鉱山の全景が出現。木造2階建ての宿舎に、やっとのことでたどり着いた。
早速部屋が1部屋6名ずつ割り当てられ、一夜を明かしたのだったが、出発前の、南京虫が出没するという噂(うわさ)は、一応覚悟してはいたが、さほどではなく、2、3度刺されはしたが、耐えることはできた。
入山して最初に鉱山の概要説明を聞いた後、元山に所在する鉱業所、病院、用度(鉱山のいわば百貨店)、催事用の「老松会館」、そして鉱山学園と案内され、校庭を通りかかったら案内人から鉱山の娯楽の一環として今でも草野球を楽しんでいると聞かされた。
後で分かったことだが、中村社長は早大野球部の選手で野球への理解があり、世の中どうであろうと、はばかることなく野球ができたのだろう。
その時社員と学徒との対抗試合の話も出たが、遂に実現はしなかった。松尾鉱山誌によれば、社長夫人京さんは、早大野球部創始者安部磯雄部長の愛娘とあった。
食堂での映写会は、朝鮮の人が故郷の家族と別れてここ松尾鉱山目指してはるばるやってきた様子や、車窓の風景、寮の仲間とのくつろぎ場面などの映画だった。なお映写中に中村正雄社長自らフィルムの巻き戻しなどなさっているのを垣間見て、学徒に対する歓迎の厚い心情に触れた思いだった。
一日の日課は、朝6時起床、すなわち「総員起こし5分前」の叫びで起こされ、各部屋の前に整列して点呼を待つ間、雑談の中で、今もなお愛唱されている「北上夜曲」を、すでにあのころ知っていた日沢和重君が「岩手師範の生徒が岩手公園を散策中、下駄(げた)の鼻緒が切れて途方に暮れていたら、たまたま通りかかった白百合の校章をつけた岩手高女の生徒がすげてくれて、愛が芽生え、2人が夜の中津川畔を歩いた思い出の歌」だと言って、「…匂(にお)い優しい白百合の…」と歌い出したりした。
やがて点呼の教師が現れ、班長が「総員6名、厠(かわや)当番1名、現在員5名」と報告。
結局、寮を軍艦に見立て、廊下での敬礼は斜め45度の海軍式の挙手の礼だった。
時に教官が各部屋を見回り、臨検に見やすいように常に押し入れの襖(ふすま)をはずして、畳んだ毛布の積み重ねの角をそろえて整理整頓を心掛けねばならなかった。 (つづく)
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