戦時下の盛岡中学   52    川守田進(盛中60期)

松尾鉱山の思い出・続き
私の思い出−「元山の鉄鉱石を採掘」


■私の思い出
     
  わたしどもの組は、松尾鉱山元山の鉄鉱石採掘と積み出しだった。松尾鉱山といえば、硫黄ばかりと思う人が多いと思うが、鉄鉱石も採れたのである。

  鉄鉱石と言っても木の葉の化石状のものに鉄さびの水が流れて固まったようなもの(褐鉄鉱)で、発破はかけなくともつるはしとスコップだけで砕けるようなものだった。

  それをトロッコに積んで押した。しかし苦しいという思い出はない。


  当時われらには修学旅行などはなかったから、言うなればその修学旅行気分もあった。

  しかし、宿舎には、南京虫がいた。ノミや蚊と違うのは、刺し傷が必ず2カ所ずつあること。柱の割れ目などに入っていて、暗くなると出てくる。

  体は平面的で円盤状、薄いから割れ目に入り込むのに適していた。つぶすと悪臭を発した。誰もが初めてお目にかかる虫だった。

  ある日の昼の弁当は、おかずがホッケの開きだった。さっそくはしを伸ばした瞬間、何かむずむず動くものがあり、それはどうやら虫のたぐいらしかったので、残念ながら食べる気になれず、その日は漬け物だけにした。

  ある夜、中村鉱業所長秘蔵の「水師営会見実写記録」の映画を見せてもらった。

  しかし、フィルムのコマ数が少ないため、乃木大将の動きもステッセル将軍のも、チョコマカと忙しく、それでも当時としては貴重な珍しい映画だったのだろう。また、柔剣道大会が開かれて、山の在郷軍人相手にわたしもただ1人の有段者として期待されて出場した。

  相手の突きを外して1本入ったにもかかわらず、相手はそのまま襲いかかってきて、なにしろその体が2倍も大きいものだから、たった50キロのわたしとしては、手もなく押し倒されたのだった。
  中学4年生のそれもやせっぽちの少年と35歳の壮年では勝負にならなかった。

  いよいよ帰校の日が来て、帰りの列車に乗ったはいいが、列車が今の青山町踏切で陸軍の戦車と衝突。戦車は腹を上にして田んぼに落下してしまった。

  ところがその様子を将校が5、6人立って見ているだけで、対策を指示する様子もなく、内部に火がついたなどと叫んでいた。その時の兵隊たちはどうなったかなどは記憶が定かでないが、思い出としてとにかく大事件だったということだけは記憶から離れない。

  作業は採鉱のほかに、搬器による鉱石積み出しもあった。貯鉱ビンの漏斗(ろうと)の下の排出口まで空の搬器を押してゲートを開き、鉱石を入れるのだが、勢いが強く搬器の外に出る大きな塊があったり危険もあった。それほど大変な肉体労働ではなかった。むしろ搬器が到着するまで5、6人の者が順番にベンチに腰掛けて待つ時間の方が疲れを感じたくらいだった。

  索道の帰りの搬器で到着した品物の中にはブタかウシの臓物もあり、真っ黒にハエがたかっていて気持ち悪く、何に使うかも分からなかったが、後で聞いたら朝鮮人労働者が声を上げて喜んだとか、それを食べたとのことで、驚いたものだ。

  しかし、戦後、ホルモン焼きとしてそれらが店に出るようになって思い出した。思い切って食べてみたら、歯触りがよく辛みの利いたタレといい、なかなかうまいものと知ったのだった。 (つづく)


 

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